無理難題「プロデュース」します


副題:小谷正一伝説
著者:早瀬圭一  出版社:岩波書店  2011年8月刊  \2,205(税込)  232P


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『希望の仕事術』、『ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。』の著者である橘川幸夫さんを、僕は文章の師匠と仰いでいる。


橘川さんが主催している「リアルテキスト塾」という私塾の第3期に僕が応募したのは2005年のことだった。
文章修業ができると期待していたのだが、いざ塾生になってみると、ちっとも文章の書き方を教えてくれない。代わりに、橘川さんがメディア人として生きてきた中で出会った面白い人、ヘンな人をたくさん教えてくれた。
卒塾してからも橘川さんの活躍に注目しているのだが、橘川さんのブログには、僕の知らないスゴイ人がたくさん登場する。


小谷正一氏の存在も、橘川さんのブログで知った。
2008年の橘川さんのブログには、次のように書かれている。

僕がポンプの編集長をやっていた時に、戦後日本のマスコミの基礎を作った故・小谷正一さんと会った。(中略)その時は、小谷さんのことをよく知らなかったのだが、先輩たちに聞いてみると、大変な人だったということが分かった。現在の新聞のフォーマットを作った人、4コママンガを作った人、ラジオやテレビの1週間のフォーマットを作った人、日本で最初にイベントをやった人、銀座にサテライトスタジオやソニービルの前のイベントスペースを作った人、などなど。(中略)僕は、赤坂のTBSの前にあった小谷さんの事務所、デスクKやポイントサービスに気が向いたらでかけ、ご飯をごちそうになりながら、小谷さんの生きた時代の空気をたくさん吸わせてもらった。

     オンブック社長日記 2008年11月17日(月)より

ウィキペディアに小谷正一氏が載っていないことについて)
Wikiにのるのは、どちらかという「大衆的ファン」のいる人だと思う。自分で書いてるのも多いが、それも自分が自分のファンだからだろう。戦後史の中で、僕が重要だと思っている人たちは、どちらかというと「裏方」の人たち「人知れず頑張った人たち」なので、大衆的には無名なことが多い。

     オンブック社長日記 2008年10月27日(月)より


橘川さんのブログで興味を持ったものの、どの出版社からも評伝が出ておらず、小谷氏は僕にとって「スゴイけど、なんだかよく分からない人」のままだった。
その小谷氏のはじめての評伝が今年8月に出た。毎日新聞社OBの早瀬圭一氏が書いた『無理難題「プロデュース」します』である。


今日は、この小谷氏のはじめての評伝を取り上げる。
(本書の記述に従い、ここから先は小谷氏の敬称を省略する)




小谷正一(こたにまさかず)は、大正元(1912)年7月31日、兵庫県姫路市竜野町で生まれた。
旧制姫路中学を経て昭和5(1930)年に早稲田第二高等学院に入学。


昭和10(1935)年早稲田大学を卒業。
大船の松竹脚本研究所に入り1年過ごしたあと、翌昭和11(1936)年、簡単な面接だけの縁故入社で毎日新聞社に入社する。
後に作家となる井上靖が小谷より4ヵ月早く入社していて、2人は同期生と呼び合い、親しくなっていく。


社会部に配属されると思っていたのに、小谷は事業部に配属された。


最初の仕事が新聞社が発行する将棋免状の誤字チェック。
次に振り当てられたのが自転車競争の第3コーナーに立ち、いま何週目かを旗を振って教える仕事。
3番目の仕事が、新聞社主催の浪曲大会のお茶くみ。


「これが大学出のやる仕事か!」と一度は頭にきた小谷だが、不況の世の中なので、辞表をたたきつけるわけにもいかない。「こうなったらとことん付き合うたろ」と、命じられたことは何でも引き受け、すべてを完璧にこなしたそうだ。


第二次世界大戦末期に念願の報道部への異動も果したが、戦争が終わると再び事業部へ戻された。


ふて腐れて麻雀ばかり打っていたところ、麻雀仲間だった会社の先輩から「新たに系列の夕刊紙ができる。よかったら君もこないか」と言われた。報道部をまかせるという誘いに乗り、昭和21(1946)年2月、「夕刊新大阪」に出向し、たった7人の報道部の部長となる。


「なんぞおもろいことないか」「大阪中がわっというようなことないのか」と、話題を求め続け、小谷は「新大阪」紙を有名にしていく。


事業部育ちなだけあって、話題がなければ作ってしまえ、と復員したばかりの棋士と10年無敗の名人との対戦をしかけ、名人が敗れるという映画『ロッキー』のようなドラマを演出したりもした。


四国の宇和島から大阪へ闘牛を連れてきて、西宮球場で「闘牛大会」を開催させようとしたときのこと。
22頭の牛を運ぶだけでも大変だったのだが、牛には60人の勢子がついて来るので、交通費、宿泊費、えさ代、渉外費用など、予想外のお金が飛ぶように出ていく。
やっとこぎつけた2日間の興行は、初日の土曜日こそまずまずの入場者が来てくれたが、2日目の日曜日が雨天のため順延。月曜日は雲ひとつない晴天だったものの、気温は低く、平日とあって客席はまばらだった。


この顛末を題材に井上靖が書いた「闘牛」が芥川賞をとるというおまけは付いたが、結果的に、会社の資本金を超える額の赤字を計上してしまう。


意気消沈する間もあらばこそ、闘牛から3ヶ月後、小谷は「欧州名作絵画展」を仕掛けた。倉敷の大原美術館のコレクションを借り出し、阪急百貨店で展覧会を開いたのだ。
なにしろ、闘牛とちがって、ゴッホルノワールの絵は餌も食べないし、世話役の勢子も必要ない。
名画は美術館に見にいくものと決まっていた常識をうちやぶったおかげで、今回の企画は当たった。連日超満員で大盛況となり、闘牛の赤字を埋めあわせできるほど巨額の純益を生み出した
今や客寄せの定番イベントになっているデパートの絵画展は、小谷が始めたのである。


本書では、このあとプロ野球の新球団を作って2リーグ制にするきっかけをつくったり、最初の民間ラジオ放送開局に際し、NHKラジオの上をいく魅力的な番組作りをしたり、当時「毎日新聞社天皇」と呼ばれた本田社長からの無理難題を形にしていく過程を描いていく。


その後、「電通の鬼」と呼ばれた吉田秀雄社長に請われて昭和33(1598)年に電通に入社するが、昭和38(1963)年に吉田が60歳の若さで死去したあと、昭和41(1966)年に独立して個人事務所「デスクK」を設立する。
このあと、描写は急にかけ足になり、終盤に向かう。
平成4(1992)年に小谷が80歳で死亡したことをエピローグで述べ、いくつかの逸話を紹介して終わっている。



いつもは批判がましいことは書かない僕の書評だが、最後にひとつ、本書についての不満を書かせてもらう。
それは、小谷がフリーになってからの記述が極端に少ないことである。


小谷のはじめての評伝であるからには、電通をやめたあとの事跡も、もっとていねいに追ってほしかった。


電通に引き抜いてくれた吉田社長が亡くなったとき、小谷は50歳だった。「後を追うように退社」したあと、小谷が個人事務所を設立したのが3年後というから、まだ53歳か54歳。
なのに、本書の本文は、電通時代の部下たちが次々と事務所にやってきて、相談事を持ち込んでいるところで終わっている。その後80歳まで生きた小谷の後半生は、エピローグでわずかに触れているだけである。


「同じことは二度とやらない」主義を貫いた小谷のこと。痛快なエピソードは事欠かなかったろうに、著者の早瀬氏は詳述を避けている。


フリーになってからの記述を端折ったのはなぜなのか。
それは、電通を辞めたあとの小谷の人生が、早瀬氏には「余生」にしか見えなかったからだ。


はじめての評伝なのに、残念なことだ。


プロ野球球団や放送局を作ったことにくらべると、たしかに、フリーになってからの小谷の仕事は小さく見えるかもしれない。しかし、たとえ規模は小さくとも、小谷の発想は、「大阪中がわっというようなことないのか」と智恵をしぼっていたころと変わらなかったに違いない。


その証拠として、『「エンタメ」の夜明け』に登場する小谷のエピソードをひとつ挙げておく。

 電通プランニングセンター時代、小谷の部下だった岡田芳郎は、小谷にこうつっかかったことがある。
「ボクは、小谷さんがうらやましいですよ」
「何で?」
「だって、今という時代は、広告でもイベントでも何でも形が完成してしまっていて、行き詰まっているでしょう。小谷さんみたいに、時代の過渡期に、真っ白なキャンバスに思い通りに絵が描けたら、ほんとうに楽しそうじゃないですか。うらやましくてしかたありませんよ」
 小谷はまっすぐ岡田の目を見て、こう答えたという。
「岡田くん。いつだって時代は過渡期だし、キャンバスは真っ白なんだよ」


こんど橘川さんにお会いしたとき、「小谷さんってどんな人だったんですか?」と訊ねてみようと思う。

関連書評


馬場康夫著『「エンタメ」の夜明け』(2009年6月のブログ