樺美智子 聖少女伝説


著者:江刺 昭子  出版社:文藝春秋  2010年5月刊  \1,850(税込)  319P


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1960年6月15日。
日米安全保障条約の改定に反対する活動のさなか、国会構内で樺美智子という東大の女子学生が死んだ。
まだデモ隊がゲバ棒を持たないころで、丸腰の学生が亡くなった反響は大きく、樺美智子は反対運動のシンボルとして祭り上げられるようになる。


死後50年を期に出版された本書は、樺美智子の短い生涯を丹念に追ったルポである。
娘を亡くしたあとの、その後の両親の行動にも触れ、まるでジャンヌ・ダルクのように「聖少女」扱いするようになった伝説がどのように作られていったかも追っている。


僕が大学に入ったのは70年安保闘争から6年後の1976年だった。学生運動をどう捉えるのかを学生一人一人に問う風潮が残っているころで、特に僕は学生が運営を行う北大の恵迪(けいてき)寮という自治寮に入ったおかげで、学生運動のなごりを目にすることになる。


民青(日本共産党の青年組織)のメンバーが寮の運営を行う「執行委員」に就いているなか、革マル派の学生も在寮していた。寮の食費の使い方や行事の日程を決議するはずの寮生会議は、両派の議論を延々と聞かされる忍耐の場となった。


学生運動の応援に東京へ行った顔見知りの寮生(革マル派)が、中核派との内ゲバに巻きこまれて亡くなったのは、たしか大学2年の夏のことで、「学生運動は僕には関係ない」と言おうと思えば、「では君の思想信条は何なのだ」と問われかねない雰囲気に囲まれていた。


学生運動は多くの派閥に分裂していたが、樺美智子という女子学生がデモの最中に命を落としたことを悪く言う学生は、どのセクトにもいなかった。


当然のように、僕も彼女の遺稿集『人知れず微笑まん』を読んだ。


この本を読んで、社会変革を目指すひたむきさに影響を受けた若者は多く、1965年に自殺し、後に『青春の墓標』で知られるようになる奥浩平も、学生運動をはじめるきっかけのひとつは、『人知れず微笑まん』を読んだことだったという。


だが僕は民青にも革マル派にも入らず、1年半後には学生寮を出た。


60年安保闘争から16年、70年安保からも6年たっていたので、そもそも学生運動自体が時代遅れになっていたのだが、『人知れず微笑まん』を読んだこと自体は、一種の心のキズとなって残っている。
新井由美が書いた『「いちご白書」をもう一度』の後ろめたさが、少しだけ分かった気になる「遅れてきた学生運動」世代なのである。


60年安保闘争から50年もすぎた今、その樺美智子の生涯と、聖少女伝説の成り立ちを見てみよう。


樺美智子は、1937年(昭和12年)11月東京に生まれた。
父は大学教授、母も女学校出と家庭環境は恵まれており、著者の江刺氏は、「紛れもないアッパーミドルクラスのインテリ家庭であり、美智子は非凡な娘である」と言っている。


早くから政治や社会問題に興味を持っていて、小学校高学年で宮本百合子に出会う。高校時代から左翼運動に興味を持ち、共産党にシンパシーを抱いた。


1957年、一浪のあと東大文科II類に入学。
全入学者2019人のうち、女子学生は63人という稀少さだった。


すぐに自治会活動に飛び込み、はじめてのデモにも参加する。


その後の学生運動への傾斜の詳細は本書で確かめていただきたいが、美智子は20歳の誕生日を記念して共産党に入党し、1年数ヶ月後にはブントに加盟するために離党している。ブント(共産主義者同盟)とは、「革命的左翼」団体で、江刺氏は次のように解説する。

   そのめざす方向は、スターリン主義を否定してレーニン主義復権
  ることだった。すなわち、一国社会主義革命ではなく世界革命、平和共
  存ではなくプロレタリア独裁、議会主義平和革命ではなく暴力革命、講
  座派の二段階革命(民族民主革命)ではなく労農派の一段革命(社会主
  義革命)を綱領にうたっている。


満22歳と7ヶ月で美智子が命を絶たれたのは、1960年6月15日。
安保闘争の盛り上がりのなかで、この日、デモ隊が国会南門内になだれ込み、排除命令を受けた方面警察隊と警視庁最強の第四機動隊が学生たちに襲いかかった。
多数の学生たちが運ばれていき、その中に樺美智子がいた。


江刺氏は、樺美智子の死因について、「圧死説と扼死説があるが、どちらかというと、圧死説のほうが流布している」と書いたあと、死因をめぐる謎も紹介している。


一人の女子学生の死は大きな反響を呼び、東大本郷キャンパスの銀杏並木を5千人が埋め尽くし、国会南通用門はたむけられた花々で埋まった。
政治的影響も大きかった。アイゼンハワー米大統領の訪日予定が延期(後に中止)され、岸首相の退陣につながることにもなる。


亡くなって10日足らずのうちに東大慰霊祭、全学連慰霊祭、国民葬と、3つのセレモニーが執り行われた。
江刺氏は、このあと樺美智子が「聖少女」といっていいほど神格化されていく過程を追い、美智子の両親がどのように関わっていったかもレポートする。


「日本のキリスト」とまで美化されてしまったが、「彼女はきわめてすぐれた知性の持ち主で、努力家でもあったが、特別な存在ではない」と江刺氏は結論する。


新左翼統一のシンボルに擬せられた歴史がおわったとき、一人の若者の死の無念さだけが心に残る。


最後に、もうひとつ江刺氏の一文を引用させていただく。

  まだ何事かを成したわけではない。これからというときに命を絶たれた。
  限りない可能性の向こうに広がっていた夢や理想を実現することができ
  ないままに。