「エンタメ」の夜明け


副題:ディズニーランドが日本に来た!
著者:馬場 康夫  出版社:講談社  2007年1月刊  \1,470(税込)  229P


「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!    購入する際は、こちらから


戦後日本のエンターテインメント業界に燦然と輝く小谷正一氏、堀貞一郎氏という2人のプロデューサーの軌跡をつづった一書です。



小谷正一は、1912年(大正元年)生まれで、毎日新聞に入社して社会人になったのは1936年(昭和11年)ですので、まだ太平洋戦争前のことでした。


戦後の混乱の中、1948年に愛媛県の闘牛を大阪で開催す興行を企画しましたが、雨のため大失敗。会社にばく大な損害を与えたといいます。とても会社員と思えない破天荒な小谷をモデルに、同期入社の井上靖は『闘牛』という小説を書いて茶川賞を受賞しました。


なんとかばん回しようと考えた小谷氏は、大原美術館の絵画を借りて阪急百貨店で絵画展を開き大成功させました。
デパートの絵画展は今や客寄せの定番イベントになっていますが、最初に思いついたのは小谷です。


小谷氏の「日本初」はその後も続き、当時1リーグ制だったプロ野球を2リーグ制にする立役者の1人になったり、テレビ放送の草創期に広告料金の決定やCMフォーマットを作ったり、大阪万博では複数のパビリオンをプロデュースしたりします。
黒子に徹するという信念を持っていたせいか、小谷氏の名前を知る人は多くありませんが、エンタメを大きな産業に押し上げた功労者なのです。


万博準備のための視察旅行でディズニーランドを知った小谷氏は、その後「ディズニーランドを日本に持ってこられたら……」が口癖になりました。


実は日本にも、かつてディズニーランド“もどき”がありました。
1950年代末に、「将来、一緒に日本で事業をしたい」と申し出た興行会社が、ロスのディズニーランドの裏側まで見学させてもらった挙げ句、ノウハウを勝手に真似をして、奈良県に遊園地を作ってしまったのです。
昨年、中国の遊園地が勝手にディズニーのキャラクターを真似しているとの報道がありましたが、私たちが中国を笑うことはできないようです。


日本人に不信感を持ってしまったディズニー経営陣に対し、浦安の埋め立て地にディズニーランドを開園することを提案したのが、小谷氏のかつての部下である堀貞一郎でした。


日本にディズニー経営陣を招いたときのプレゼンの大成功等、開園までに数々のドラマが生まれますが、最も印象的だったのは、ディズニーランドのオープニングセレモニーに招待された小谷氏の一言です。
(堀氏に案内されながら、シンデレラ城にのぼるスロープで小谷氏が発した一言の内容は、本書を読んでのお楽しみとさせていただきます)



東京ディズニーランド開業までの物語というメインテーマを少し離れますが、とても興味深く感じたのが、ディズニーの作風についての考察でした。


馬場氏は言います。

  ディズニーランドのアトラクションは、1から100までがベタネタ、
  ご存じモノだ。


たとえば「カリプの海賊」はふつうの人が海賊に抱いているイメージ ―― 財宝の山やドクロ、義足に義手の船長というイメージを再現させているのです。

  そもそも、エンタテインメントの基本は模倣である。

もう一歩踏み込んだ馬場氏は言い切りました。かのシェイクスピアでさえ37本の戯曲のうちオリジルは4本で、残り33作はギリシャやローマ古典の焼き直しだったというのですから。


エンタテインメントは、先の時代を生きたクリエイターたちとの愛と信頼にもとづく模倣の積み重ねなのです。


エンタメ界のクリエイターには、その作品が「好き」なら、真似してもOKという暗黙の了解があるそうです。
そういえばPLUTOは鉄腕アトムへのオマージュと言ってましたっけ。


ディズニーランドに込めたディズニーの思いは後世に受けつがれたようですが、作品に対する大らかさは失われてしまい、ウォルト亡き後、ディズニー社は、数々の著作権上の訴訟を起こしました。
同時に自分が訴えられることに臆病になり、どう考えても手塚治虫の『シャングル大帝』の影響を受けている「ライオンキング」を全くのオリジナルと突っぱねる姿勢はみにくいものでした。

  エンタテインメントの愛と信頼の輪、すなわちサークル・オブ・ライフ。
  その絆を世界でいちばん深く理解していたのは、ウォルト・ディズニー
  その人であり、手塚治虫ではなかったか。

映画監督としてクリエイターの最前線に立つ馬場氏の指摘は、重く胸に響きます。