多読術


著者:松岡 正剛  出版社:ちくまプリマー新書  2009年4月刊  \840(税込)  205P


多読術 (ちくまプリマー新書)    購入する際は、こちらから


連休明けの最初の号ということもあり、ワタクシ、力が入っています。かなり長い読書ノートになりますので、ご用とお急ぎのある方は、どうか読み飛ばしください。


松岡正剛氏(以下、親愛と尊敬の気持ちをこめて「セイゴオ」と書きます)は「千夜千冊」という書評で知られる作家、読書家です。


ともかくセイゴオは読みます。
子どものころから読みつづけ、若い頃も読み、今も読み、これからも読む。
お風呂で読む、寝ころんで読む、もちろん机に向かってペンを片手に読む。
難しい本を読み、疲れてきたら息抜きに別の本を読み、回復したらまた難しい本を読む。


そのセイゴオの読書法を編集者がインタビューしてまとめたのが本書です。


セイゴオにとっての読書とは、確立された「自己」がかざりとしての「知識」を身につける行為ではありません。
まだまだ変わる可能性のある柔軟で不安定な「自己」が、書物という人格と付き合い、時には失恋し、時には人格を変えるくらいの影響を受けるような真剣な交際をすることを意味します。


「読書とは編集だ」というセイゴオですので、書き込みしながら本を読むのが基本スタイル。「本はノートである」という考えです。
読みながらすぐひけるように、何種類も辞書を身近におく。できれば「使う辞書」「読む辞書」「調べる辞書」を使い分けるという、シロートには想像もしないこともやってます。


本を読みおわったあともセイゴオの「読書」は続きます。


本の内容を自分なりの年表や地図や引用ノートにまとめていく。ノートも1冊だけでなく、「論理のおもしろさ」「せつなさ」「知的ジョーク」等の項目別に複数のノートに記入するといいます。


私も本を読んだあと、わざわざ書評を書くなんていうメンドくさいことを実行しているのですが、その私が見ても、セイゴオの読書ツールは驚きです。

こんな大変なことをしなければならないとしたら、普通の人は、とても読書に手を染めることはできないでしょう。それをセイゴオは簡単にやってみせ、むしろ読書の喜びを深めるための術として紹介しています。


世界を理解し尽くさずにおくおものか! という飽くなき知的好奇心のたまもの。これほどの“大食い”を見せつけられては、自分がいかに小食か自覚するよりほかはありません。


セイゴオは、本の内容だけにこだわらなくてもいい、と言っています。その本を喫茶店で読んだとか、冬の寒い夜に読んだとか、タイトルにシビれたから読んだなど、本との出会いや環境も読書の一部なのですから。
セイゴオに勇気づけられて、私がこの本を手に取るに到った個人的経緯を書いてみようと思います。

そもそも、セイゴオを最初に教えてくれたのは、学生時代の友人です。
彼は、「ISIS編集学校」(http://es.isis.ne.jp/)というセイゴオが主催する私塾の「師範」を務めていて、千夜千冊という膨大な書評サイトの存在も知らせてくれました。
もう一人、求龍堂という出版社からジョナサン・コット著『奪われた記憶』を献本いただいたとき、編集者のMさんとのご縁もありました。


同じ北海道出身という親近感から何度かメールをやり取りさせてもらいましたが、そのMさんがあの電話帳のような「千夜千冊」(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4763006428.html) を担当していたそうです。


家庭の事情で担当から降りたものの、「千夜千冊」別巻の一行に、Mさんのことが書かれているそうです。


お会いしたこともないMさんですが、ご縁のある編集者さんの、そのご縁の先にセイゴオがいる。
そう思うと、近寄りがたいはずのセイゴオが身近に感じるから不思議です。


本書はかなり難しい内容を予想させる本でしたが、縁者の読書術を探求してみることにしました。


実際に手にとってみると、セイゴオがワクワクしながら本を読んでいる様子が伝わってきます。


もちろん、知らない書名がたくさん出てきたり、真似できそうもない読書法が登場したりする部分もあるのですが、あっちでもこっちでも、刺激や共感を覚える読書となりました。


私の読書ノートの非公開部分には、その本の気になったフレーズ、気に入った文章を書き写しているのですが、今回の総文字数は7,800字を越えました。原稿用紙にして、ほぼ20枚を書き写したことになります。


こんなに書き写したのは、池田晶子著『勝っても負けても――41歳からの哲学』の10,778文字以来です。


今回の書き写しの中から、セイゴオに特に刺激を受けた内容を、3つ書きます。


その1。
読書に疲れたとき、元気を取り戻すためにセイゴオが読む本のジャンルの話。


「みなさんには意外かもしれないけれど」と前置きしたあと教えてくれたのは、「曖昧な部分」、「きわどい領域」、「余分なところ」でした。


感覚的な言い方をすると、次のようになるそうです。


  「せつない」とか「残念」とか「失望感」とか「気持ちばかりがいっぱい」と
  いうものに当たります。つまり、ふつうは「負」の部分とか「際(きわ)」の
  状態だと思われているところに、意味が創発してくるのです。ぼくは、そこが
  センシティブであるからこそ、それをバネにしていいと判断している。


私が本を読むときの感覚も、セイゴオに近いものがあります。


ネット書評の多くがビジネス書や成功本を取り上げていることへの反動もあり、私は、理性より情念に訴える書物、「ココロにしみる」本を大切にするようになりました。


知の大山脈のようなセイゴオも「せつない」を大切にしていると知り、自分の読書法は間違っていないと安心しました。


その2。
セイゴオが世界観に目覚めるきっかけとなった作品の話。

セイゴオは高校時代に親友から
  「『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」はどういう意味だと思う?」と尋ねられ、仕方なく読み通したものの、「大審問官」の意味なんてさっぱり分からなかったそうです。


その「さっぱり分からない」経験が、松岡さんの読書の深みを増したのだとか。


あとでふり返ってみると、『カラマーゾフの兄弟』のなかには、「キリスト教」「神」「父殺し」「宗教」「詐術」「パンの問題」「悪」「絶対者」「幼児虐待」などの様々な問題が扱われていて、それはまさにギリシア・ローマ・ヨーロッパ・ロシアの世界観にかかわる問題だったのです。


私もセイゴオに遅れること6年。
大学院生時代に『カラマーゾフの兄弟』を読みました。


きっかけは、FMラジオにゲスト出演していた漫画家の松本零士氏のおススメで、番組で「“大審問官”の意味は深い」と紹介していたことで、やはり私もさっぱり分からなかったことを思い出します。


その3。
一般の「読書のススメ」の逆をいくセイゴオの「読書のススメ」。


ふつうに考えられている「読書のススメ」は、「いい本を読む」、「じっくり読む」、「自分のペースで読む」、「よく理解しながら読む」、「量より質」などです。


一見、正しそうに聞こえることばかりですが、読書が苦手な人は、これが実践できないからこそ悩んでいるのです。


世間の逆をいくセイゴオの「読書のススメ」は、
 ・理解できるかどうかわからなくとも、どんどん読む。
 ・自分の読書のペースなどわからないのだから、読みながらチェンジ・オブ・
  ペースを発見していく。
 ・自分にあう本を探すより、敵ながらあっぱれだと感じるために本を読んだっ
  ていい。


いろんな読書法があってもいい、と安心させ、励ましてくるま一書です。自分にぴったりの読書法がきっと見つかります。