右手に「論語」左手に「韓非子」


副題:現代をバランスよく生き抜くための方法
著者:守屋 洋  出版社:角川SSC新書  2008年1月刊  \777(税込)  191P


右手に「論語」左手に「韓非子」―現代をバランスよく生き抜くための方法 (角川SSC新書)    購入する際は、こちらから

孔子性善説を論じ、韓非子性悪説を唱えた。
現代に生きる我々は、両者の説をバランスよく取り入れなければならない。

という分かりやすいコンセプトの新書である。


第1章「性善説性悪説か」のあと、“知ってるつもり”の「論語」はあとまわしにして、第3章『韓非子』の名言を先に読んだ。
著者の守屋氏が性悪説論者と断定するだけあって、人を信用しない底意地の悪そうな韓非子の「名言」がならんでいる。おおざっぱに言ってしまうと、人間は利益最優先で行動するものだから、「法」という基準を作って、その通りに罰したり褒めたりすれば統治はうまくいく。「仁徳」などという個人の資質による方法に頼ってはならない、という考え方のようである。いわゆる「法家」の思想だ。
アダム・スミスの「神の見えざる手」のように身も蓋もない理論だが、単純で分かりやすい物言いだ。


韓非子のスパッとしたご説を拝聴したあと第2章『論語』の名言にもどってみると、孔子様のお言葉が、いかにも優柔不断に聞こえる。それでも「法律をふりかざし、刑罰をもって押さえ込もうとすれば、法律の抜け穴ばかり探し、恥を恥とも思わなくなる」という指摘には、現在のモラルハザードを予見したかのような説得力も感じる。
最後まで読むと、「両者のバランスが大切」という著者の主張が自然に納得できた。


もし第2章、第3章の順番に読んだら、韓非子のようにスパッと割り切れたのだろうか。いやいや、いかにも性悪説論者という主張ばかりでなく、第3章には「あれっ? これ性善説じゃないの?」という言葉も含まれているから、簡単には割り切れない。
例えば、次の一文。

巧詐不如拙誠(巧詐は拙誠に如かず)


現代語訳:信頼を得るには、「巧詐(こうさ)」よりも
     「拙誠(せっせい)」が優っている。


性善説、性悪性どちらにもかたよらず、最後は自分でよ〜く考えよ」というところか。