著者:アクセル・ハッケ/作 ミヒャエル・ゾーヴァ/絵 那須田淳/共訳 木本栄/共訳
出版社:講談社 1996年10月刊 \1,365(税込) 108P
イラストが印象的な大人の絵本を読んだ。
表紙には、コーヒーカップと同じくらいの身長で頭に冠をのせた男が、新聞紙の上で威張っている絵が載っている。
この人差し指サイズの王様は、ある日、ふらりと「僕」の部屋にあらわれた。
王様の国では、人は生まれたときが一番大きく、年をとればとるほど小さくなっていく。身体だけでなく、知識も知能も生まれたときがピークで、どんどん忘れていくとのこと。
小さくて太っていて、ちょっと威張った王様と「僕」とのちょっとした友だちづきあいを通して、「僕」はいろいろなことを考えさせられる、という短いお話。
おとな向けのおとぎ話だから、もちろん寓意に満ちた物語――らしく思える。その寓意が何を表そうとしているのか、正直言って僕にはよくわからなかったが、人生について、夢について、感じる人には感じるところがあるかもしれない。
一箇所だけ印象に残ったのは、命のはじまりについて王様が語る場面だ。王様は、どんどん記憶がなくなるので、自分がどのように誕生したのか忘れてしまった。王様と女王様がなにかを一緒にするはずなのだが、いったい何だったか思い出せない。
「じつは、思い出したのだ」
王様はうれしそうに「僕」に教えてくれる。
王様の国では、まず王様と女王様がしっかりと抱き合う。それから二人とも目をつぶり、そして……なんとベランダから飛び降りるのだ。二人がちゃんとしっかり抱き合っていたら地面がトランポリンのように弾み、二人は天まで飛び上がる。そのとき二人が取ってきた星をベッドのなかに入れておくと、人間の子どもが生まれる。
どうして命がうまれるのか、という疑問は、人類共通の疑問に違いない。桃太郎は桃から生まれ、かぐや姫は竹から生まれたが、「コウノトリが赤ちゃんを運んでくる」という西洋生まれのお話を日本の皇室が使うくらいだから、日本には定着した譬え話は存在しないようだ。
命のはじまりといい、大人になればなるほど幼くなる人物といい、どこかで読んだ気がする物語だ。ちょっと記憶をたどってみたところ……、あった! そうだ、芥川龍之介の『河童』だ。
河童の世界に迷い込んだ「僕」は、そろそろ人間の世界が懐かしくなったとき、この世界から抜け出す方法を尋ねようと年寄りカッパに相談しに行った。ところが、このカッパ、頭の皿も固まっていない。やっと12か13歳になったばかりに見える。いぶかしく思う「僕」に、カッパは次のように告げた。
「お前さんはまだ知らないのかい? わたしはどういう運命か、母親の腹を出た時には白髪頭(しらがあたま)をしていたのだよ。それからだんだん年が若くなり、今ではこんな子どもになったのだよ。けれども年を勘定すれば生まれる前を六十としても、かれこれ百十五六にはなるかもしれない。」
もうひとつ、カッパのお産に出くわした場面。
けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。
(引用は青空文庫の『河童』より)
生まれたときから何でも自分で決められる存在でいたい、いや、生まれる前から自分の運命を自分で決めていたい。――それが、人類共通の夢のひとつなのかもしれない。