グラミンフォンという奇跡


著者:ニコラス・P・サリバン著 東方雅美・渡部典子訳
副題: 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換
出版社:英治出版  2007年7月刊  \1,995(税込)  331P


グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ]    購入する際は、こちらから


マイクロクレジットという言葉をご存じでしょうか。貧しい発展途上国のなかでも収入レベルの低い最下層の人々に、無担保でお金を貸すことを指します。
貸し出しは単なる援助ではありません。お金を借りた人々が貧困を脱出するための新しい事業に投資することが条件です。
たとえば借り手の女性は1頭の牛を買い、牛乳を搾って近所に売って借金を返済します。借金を返し終ったとき、女性は牛乳を生産する“資本”を元にした起業家となっているのです。


貧しい国の貧しい人にお金を貸すという発想自体が画期的ですが、たとえ無担保でも相手をみきわめて「融資」を行えばきちんと返済され、社会も豊かになっていく、ということをバングラデシュで証明したムハマド・ユヌス氏の業績は大きく、2006年に彼の創業したグラミン銀行と共にノーベル平和賞を受賞しました。
本書は、このマイクロクレジットグラミン銀行(直訳すると村の銀行)の話ではなく、やはり常識やぶりの方法でバングラデシュ貧困層を経済的に押し上げたグラミンフォン(村の電話)の物語です。


この物語の主人公のイクバル・カディーアは、バングラデシュパキスタンから分離独立した時の混乱時に辛酸をなめたあと、17歳で留学生としてアメリカへ出国しました。
大学院を卒業し、世界銀行で働いたあとベンチャー・キャピタリストとなったカディーアは、母国への恩返しもできる魅力的な新事業を思いつきます。
それは、携帯電話をバングラデシュに普及させることでした。
携帯電話ビジネスの市場としてバングラデシュを見るとき、次の3つの利点がありました。
  (1) 低地で人口密度が高い
  (2) 人口が1億2千万人と多い
  (3) 競争が無いに等しい

しかし常識の壁は厚く、バングラデシュの高級官僚に、「みな食べるものにも不自由している。電話を使って何をするのだ」と呆れられたこともありました。当時の携帯電話1台の価格400ドルはバングラデシュ人の平均年収の約2倍でしたから、高級車を買うようなものだったのです。


他の人が何と言おうと、カディーアには自分の体験を通じて得た確信がありました。
それは、戦争を逃れてひっそりと暮らした村の記憶です。あるとき、弟の薬を探すため10キロの道を歩いたことがありました。ところが薬局に薬剤師は不在で、まる1日ムダにしてしまったのです。電話さえあれば、こんなことにはなりませんでした。
この日のことを回想するたびに、
  「〈つながること〉はすなわち生産性なのだ」
とカディーアは確信を強くします。


新事業のパートナーとしてグラミン銀行との連携を模索していたとき、カディーアは自分の着想とマイクロクレジット有機的結合方法を思いつきました。それは、
  「携帯電話を牛のように使う」
ということです。
貧しい女性がお金を借りて1頭の牛を買ったように、新しい事業では貧しい女性が借りたお金で携帯電話を買い、その電話を村人たちに賃貸しするのです。彼女は「電話屋」という新しい事業主になり、村では電話を買えない人も電話をかけることができるようになる。
村人は隣村へ医者を探しに行く前に電話で確認できるようになり、農産物を業者の言い値で売らずに、他と比較して売れるようになるでしょう。電話のおかげで、生産性は向上し、多くの収入を産み出すようになるのです。
本書では、この事業プランが外国の投資家や電話事業者の協力を集め、実現するまでを詳細にレポートしています。


社会貢献なのに事業として利益を出せる。
逆に言うと、営利事業なのに社会貢献して社会を変えることができる。


不思議な感動に満ちた一書でした。


ところで、今日の(9月9日付)朝日新聞の書評ページに、本書『グラミンフォンという奇跡』の書評が掲載されました。
以前読んだ永江朗さんの『〈不良〉のための文章術』に、「人と同じことは書かないようにしなさい」という意味の文章指導が書いてあります。
ご指導に従えば、天下の朝日新聞で紹介した後で(しかも同じ日に)この本を取り上げるべきではありません。


しかし、この本を読んでいて、著者の境遇に共鳴する部分があったので、敢えて取り上げることにしました。


共鳴する部分というのは、電話のない生活です。


以前にも書きましたが、私の故郷は北海道の山奥の開拓地で、ものごころ付いた頃は電気も水道も電話もガスもない生活を送っていました。
電気と水道は私が5歳の時に開通してランプ生活に別れを告げ、やがてプロパンガスの業者も定期的に来てくれるようになりましたが、電話だけは、とうとう私が中学校を卒業して故郷を離れるまで我が家には開通しませんでした。


一個所だけ電話を置いていたのが小・中学校(ひとつの校舎に小学校と中学校が両方存在しているもの)で、どこかに電話するときは、学校に出向いて電話を貸してもらいます。それも、ダイヤル式になる前の、取っ手をグルグル回して交換手を呼び出すタイプでした。
ややノスタルジックに思い出す半世紀近く前の電話事情ですが、情報格差とは電話サービスの欠如であるというカディーア氏の指摘には、私自身の経験からも深く納得します。


私の故郷はその後も人口が減り続け、廃校になった小・中学校の跡地には木標が残されています。(2004年9月9日のブログ 参照)
皮肉なことに、この木標のすぐ横に大きな携帯電話のアンテナが建てられていて、今は牧草畑の中から電話をかけることもできるようになっています。
私の故郷もバングラデシュと同じ道を歩んでいるようです。