新聞記者 司馬遼太郎


著者:産経新聞社  出版社:産経新聞ニュースサービス  2000年2月刊  \1,500(税込)  301P


新聞記者・司馬遼太郎    購入する際は、こちらから


司馬遼太郎は、作家になる前、産経新聞の記者だったことはプロフィールにも書かれており、良く知られています。しかし、司馬氏がどんな新聞記者だったのか、ということはあまり知られていません。
本書は、多くの産経新聞社員・OBから寄せられた原稿や聞き書きを元に、石井英夫氏(産経新聞の顔である産経抄の書き手だった論説委員)が中心となってまとめた、新聞記者時代の司馬氏を回顧する一書です。


学徒動員で戦争に駆り出された司馬氏は、戦後の混乱期に小さな新聞社に入社し、2年半の経験を積んだあと、昭和23年6月に産経新聞に入社しました。京都支局で宗教・大学を担当し、古都に残る歴史の息吹を呼吸しながら知識を広げ、文化部次長だった昭和31年に『ペルシャの幻術師』で講談倶楽部賞を受賞したあたりから作家活動を開始しました。


昭和35年に『梟の城』で直木賞を受賞し、翌昭和36年に会社を辞めますが、司馬氏は新聞記者という仕事に誇りと愛着を持っていたといいます。代表作のひとつである『竜馬がゆく』は、昭和37年に産経新聞の連載小説としてスタートしていますし、昭和43年から『坂の上の雲』も連載しました。
産経新聞も「社賓」「社友」という称号を贈り、自社出身の不世出の作家を誇りとしています。


一貫して文化部畑を歩んだ司馬氏は、事件記者とか社会部記者にあこがれを持っていて、
  「私は挙措動作の機敏さに欠けるところがあって、
   サツ回りはすぐにクビになった」
とあちこちで書いているそうです。
しかし、宗教界の担当だった強みでスクープを放ったこともありました。金閣寺炎上事件が良い例で、放火した21歳の修行者の動機が「宗門への不満」だったという特ダネをつかんだのは、新聞記者福田定一(司馬氏の本名)です。


そんな司馬氏が巡り会った記者の中で、特に尊敬する3人の話が印象的でした。


ひとりはもう60歳を超えた整理部記者。
焼酎を酌み交わしながら老記者の説く“新聞記者道”を傾聴していた司馬氏は、あるとき老記者がよく使う「新聞記者として大成するには」という言葉が気になりました。
これほどまでに新聞記者の技術を磨き、精魂を傾けた果てに到達する「大成」とは何なのか。社会部長や編集局長になることを指すのであれば、卑小ではないか。
そう思いながら老記者に問いかけると、
  「つまり現在の俺のようになることだ」
と言い放ちました。
サラリーマンとして出世もせず、いつも貧しい身なりをしている老人でした。
しかし、彼には「新聞記者は鉛筆と現場を離れては存在しない」という信念があり、自分は新聞記者として大成しているのだ、という強い自負がありました。


この老記者に、司馬氏は強烈な魂の輝きを感じました。


他の2人も、出世と縁のない部署で黙々と記事を書き続ける職人的記者でした。
かたや、定年前に部長に昇格させる温情人事に対し「晩節を汚す」と断った逸話を持ち、3番目に紹介された職人記者は、毎年どの社よりも早くカエルが冬眠から覚めることを報じることを誇って「カエルも総理大臣もおなじ」と司馬氏に語りました。
これらの出会いから、司馬氏は「無償の功名主義」という新聞記者の行動原理を会得したといいます。


司馬氏には、“人たらし”と言われる一面がありました。自分に縁する人の長所を褒め、励まし、調子に乗せてあげるので、相手は「自分は司馬さんに特別な厚情を受けた」と思ってしまうのです。
本書は、産経新聞社内で「司馬さんが私だけに明かしてくれた逸話」を持っていると信じている人たちの集大成ですから、司馬氏への熱い思慕に満ちています。


自分も司馬さんの座談の輪に加わってみたかった。
そう思わせてくれる幸せな一書でした。


本書を読んでいると、あの司馬遼太郎の文章が浮かんできます。
清水義範氏にならって、今日は司馬遼太郎ふうのパスティーシュで私と司馬氏の出会いを書いてみることにしましょう。
では……

 司馬遼太郎は、座談の名手でもあり、講演の名手でもあった。多くのCD
やカセットテープに残されているように、彼は多くの講演会を雲に乗るよう
な軽やかさで引き受け、如意棒を振り回すようにしゃべりまくった。
 さっそく余談ながら、人の細胞というものは、2年とか5年も経てば頭の
てっぺんから足のつま先に至るまで、丸ごと入れ代わってしまうほどの新陳
代謝を行うという。
 その小生の細胞が、もう6回は入れ代わろうかという遙か昔、司馬遼太郎
に会う機会があった。いや、「会う」というよりは「見た」というべきであ
ろう。
 その日、札幌で貧乏学生をしていた小生のもとに、「講演会の整理役員を
やってみないか。バイト料は出ないが、司馬遼太郎に会えるぞ」という耳寄
りな話がもたらされた。
 札幌というのは、中途半端な都会である。北海道で最も人口も多く、随一
の文化都市であることは疑いようのない事実なのだが、残念なことに京の都
も東の都も茫々たる津軽海峡のはるか彼方に存在する。直截に言えば、遠い。
 このため、流行歌の歌い手が一人くるだけで大騒ぎになる地方都市のよう
にあからさまに文化に飢えたところもなく、かといって有名作家とすれ違っ
てもふり返りもしない東京のように、テレビの向こうの世界とこちらの世界
の融合が日常化しているわけでもない。
 その中途半端な都会の住人になって2年も経っていたろうか。小生とて、
小説家、という人種を見たことがないわけではない。だが、初めて拝聴した
子母澤寛という小説家の講演は、何を話しているのか理解を超えていた。
彼の代表作『父子鷹』も『勝海舟』も、その題名すら知らない人間に分かる
話などあるわけがないのだが、ともかくも、小説家の講演会を聞いたことは
ある。
 そんな小生に、司馬遼太郎に会えるかもしれない、というお誘いである。
 迷う余地もなく、これは、もう乗るしかないのである。
 当日の会場には、小生と同じ助平ごころを持った学生がひしめいていた。
最も人気のあった「場内整理係」の籤にもれ、小生は1階エレベータ担当を
命ぜられた。一般参加者をエレベータに誘導し、会場が上の階であることを
教えるという仕事である。
 会場で講師の話を聞くという余禄のある「場内整理係」とは違い、地味な
役割である。とはいえ、開場時間になると一般客がドッと押し寄せてくる。
不遇を託つ暇などなく、ひたすら参加者をエレベータに案内していたその時、
小生の視界の端に見覚えのある背の低い白髪頭の紳士が映り、ずんずん近づ
いてきた。
 司馬遼太郎その人である。
 とっくに開場横の講師控え室にでも到着していると思ったご本尊が、一般
参加者と同じ玄関ホールに現われた。この信じがたい珍事に、小生の頭の中
が混乱しないわけがない。
 気がつくと、とっさに司馬氏を案内したエレベーターが上に行かずに下へ
向かっていた。
 いったい全体なにが起こったのか?
 落ち着いて考えればすぐ分かること。エレベータが上へ行くかどうかよく
確かめもせずに、司馬氏を下りエレベータに案内してしまったのである。
 気落ちしている間もなく、2分後に件(くだん)のエレベータの扉が開い
た。下の階で誰ひとり降りることもなく、そのまま、また上に向かってきた
のである。

 正面にいた司馬氏が、困ったような、怒ったような目でこちらを見た。エ
レベータの扉が閉まり、今度こそ、司馬氏は開場へ向かった。


 やんぬるかな。


 スピーカー越しに聞いた当日の講演の内容は、 よく覚えていない。