人間力の磨き方


著者:鳥越 俊太郎  出版社:講談社アルファ新書  2006年6月刊  \840(税込)  204P


人間力の磨き方 (講談社+α新書)


鳥越俊太郎は、テレビ朝日の報道ドキュメンタリー番組『ザ・スクープ』のキャスターをつとめ、最近では、市民参加型インターネット新聞「オーマイニュース」の日本版初代編集長として奮闘しているジャーナリストです。
本書は、人よりスロースターターだった、という著者が、自身の来歴を示しながら、「出遅れても気にすることはない」「人間《じんかん》至る処青山有り」という現在の信念に至るまでを語る半生記です。


毎日新聞社の社会部で活躍し、サンデー毎日編集長をつとめ、報道ドキュメンタリー番組のキャスターとして人気を集める、……という一見はなやかな経歴を持っている著者です。
さぞかし優等生でエリートコースを歩んできたかと思いきや、著者は自分のことを「おくて」「モラトリアム」「へなちょこ」3拍子そろった若僧だったとふり返ります。


著者は、京都大学に入学したものの、あまり授業には出ず、合唱団のボックス(部屋)に入り浸っていました。
留年を重ね、もう後はない7年目でやっと就職活動を開始し、年齢にも成績にも寛容といわれる新聞社にもぐりこみます。入社試験で役にたったのは、授業とは関係のない、部活での討論経験だったとか。


新人記者として配属された新潟支局では、警察回りからはずされる、という事件記者にとっては致命的な評価を受けました。
支局勤務の次のステップも、希望した東京本社ではなく、大阪本社へ。「都落ち」に似た気分で着任したところ、ここでも一人前の事件記者として扱ってもらえず、ゴリラが子どもを産むだの、猿がどうしただの「街ダネ」をひろってくる「街頭班」に回されました。とうとう大阪着任の半年後、最末端の組織である「通信部」にまわされました。


岸和田市に二年半「駐在」し、入社7年目でやっと大阪府警担当記者になったころから、本書の文章の語り口が生き生きとしてきます。
やっと著者も特ダネをつかめるようになり、取材先との信頼関係も構築することができました。
東京本社社会部への異動、ロッキード事件取材、サンデー毎日への異動と活躍、アメリカへの「留職」、ニュースキャスターへの転職と、著者の華々しい活躍が、仕事への工夫とともに語られます。


本書には、著者を成長させてくれた人びとの思い出がたくさん載っています。
なかでも、「ザ・スクープ」の相棒だった田丸美寿々氏から言われた、次のような忠告は強烈でした。
(ある日のメイクルームで)
  「鳥越さん、一度しか言わないから聞いて。
   あなたはね、30秒のコメントに血を吐いてないわよ。
   私たちアナウンサーの仕事をした人間にとっては5秒あれば
   だいたいのことは言えるし、それぐらいしか与えられないのよ。
   あなたは30秒ももらっていながら何言っているのかわからないじゃない」
九州男子の著者は、「この女、殺してやろうか!」と一瞬殺意さえ抱いたそうです。でも、「今もテレビの世界で生き残っていられるのは、あの忠告のおかげ」と、今では感謝している著者です。


後日談になりますが、NHKの不祥事が続いた後の検証番組に出演したときのこと、お茶を濁しておわろうとするNHK海老沢会長の姿勢を鋭く指摘し、最後の20秒で番組をひっくり返した、という武勇伝も披露していました。


本書の最後に、著者のスクープの中でも有名な「桶川ストーカー事件」の取材経緯が紹介されています。
警察の怠慢を追求した「桶川ストーカー事件」は、「日本記者クラブ賞」を受賞するなど、社会的に影響の大きいスクープになりましたが、取材は困難をきわめました。
メディアのあまりにひどい取材のやり方に、殺された女子大生の両親が、一切マスコミに会おうとしなかったからです。


著者は、取材意図を直接訴えるため、家族に手紙を送りました。
手紙を書きながら、著者の胸中には、
  「よしッ、これからは、『人間力』の勝負だ!」
という思いがこみあげてきました。


  60年間生きて、自分なりに磨いてきたはずの「人間力」をめいっぱい
  使って、両親の胸中に飛び込むしかない。
  他に奇手奇策があるわけはない。


真正面からぶつかる思いで書いた手紙の一部が本書に引用してあります。
被害者家族の無念さを思いやる内容が通じたのでしょうか。送った手紙が4通に達したとき、ついに弁護士事務所で父親と会うことができました。



ジャーナリストというのは、来歴そのものが報道姿勢を物語っています。
本書を読むと、鳥越俊太郎の番組が見逃せなくなるかもしれません。