ディープ・スロート


副題:大統領を葬った男
著者:ボブ・ウッドワード【著】  伏見 威蕃【訳】
出版社:文藝春秋  2005年10月刊  \1,850(税込)  253P


ディープ・スロート 大統領を葬った男


ボブ・ウッドワードは、時のアメリカ大統領ニクソンを辞任に追い込んだいきさつを書いた『大統領の陰謀』の著者として有名です。
最初は小さな侵入犯と思われたウォーターゲート・ビルに忍び込んだ5人組ですが、民主党の事務所に盗聴器をしかけるための侵入と判明し、やがて一大疑獄事件に発展します。
当時ワシントン・ポスト紙の新米記者だったボブは、同僚カール・バーンスタインと共に精力的な取材をこなし、スクープを連発しました。ボブに情報をもたらした匿名の政府高官は「ディープ・スロート」と呼ばれ、長いこと正体が明かされることはありませんでした。


2005年5月、ヴァニティ・フェア誌が「ディープ・スロート」の正体を明かし、33年ぶりにウッドワードとバーンスタインも「間違いない」と認めました。
情報提供者は、当時FBI副長官だったマーク・フェルト氏でした。
91歳になったフェルト氏は、記憶がほとんど消滅していましたが、娘のジョーンと弁護士が本人を説得したのです。


本人が死亡するまでは公表しない覚悟をしていたウッドワードですが、「ディープ・スロート」が情報を提供してくれた動機を探求するために、もう10年も前からFBIに通い、機密解除された資料をコツコツと掘り起していました。
突然の正体公表から間髪を入れず出版された本書は、ウッドワードが「ディープ・スロート」の動機を探求した中間報告としてまとめられたものです。元同僚のバーンスタインは、あまりの準備のよさに、
  「締め切り前どころか仕事をあたえられる前に下調べを終えるような男」
とウッドワードを評しています。


ウッドワードがフェルト氏と知り合ったのは、まだ著者が新聞記者になる前です。海軍から奨学金をもらっていた著者は、大学を卒業した後5年間勤務していた海軍をもうすぐ除隊するところでした。
ある日、ホワイトハウスに海軍の荷物を届けに行った著者が長時間待たされるあいだ、隣にいたのがフェルト氏でした。自分の大学の先輩で父親と同年だというフェルト氏との“偶然のめぐり合わせ”に食らいついた著者は、将来の就職のことまで相談に乗ってもらうようになります。
新聞記者になってからはFBI内部の情報源として協力してくれたフェルト氏でしたが、ウォーターゲート事件が発生すると、著者との接触を恐れるようになりました。
FBIの副長官として日々ホワイトハウスの圧力を感じていたフェルト氏は、決して自分が情報源であることを知られてはならない事情があったようなのです。


ならば、なぜ、危険を冒してまで深夜の駐車場で会ってくれたのか。
事件のほとぼりが冷めたころ著者は何度もフェルト氏に確かめようとしましたが、もう会ってくれなくなっていました。


著者がウォーターゲート事件の一連の取材で行った方法は「調査報道」の基礎を打ち立てたといわれているそうです。
現在は編集局次長の著者ですが、調査報道というものは、どれだけ迅速に手ぎわよくやれるかが結果を左右します。
著者は、よく、
   ディープ・スロートのような情報源を30年近く秘匿してきた記者だ
   からこそ、取り扱いにきわめて注意を要する政府の機密事項を打ち明
   けるのだ
と取材相手に言われます。
それは、ウォーターゲート事件の遺産といってもいいでしょう。
著者にとっては、ディープ・スロートの正体を明かしてしまうことは、この遺産をダメにしてしまうことを意味していました。何度も悩みましたが、決して自分から正体を明かすようなことはなかったのです。


その後、事件から30年近く経過してやっと会えたフェルト氏は、ただの老人になっており、もう昔の記憶が失われているようでした。
フェルト氏は「重大な情報を提供してくれた人」ではなく、もはや著者の人生にかけがえのない人になっています。それなのに、単に「昔知り合いだったらしい人」という立場で交わすフェルト氏との会話は切ないものでした。
  「言葉に詰まった。感激した。大声で泣きたかった」
と著者は述懐しています。
しかし、著者は、無理やり記憶の扉をこじ開けるような行為はつつしみました。
思い出したのは、記憶を失っていくレーガン元大統領の言葉です。
  「なんというか、自分が大統領だったという気がしない」


「自分がディープ・スロートだったという気がしない」といいたくなるまでフェルトを追い込みたくはない。
それが、ジャーナリストとしての著者の矜持でした。


歴史的疑獄事件の真相を探る、というより、著者のジャーナリストとしての原点に触れる一書でした。