勝っても負けても


副題:41歳からの哲学
2005年8月刊  著者:池田 晶子  出版社:新潮社  \1,260(税込)  175P


勝っても負けても 41歳からの哲学


著者は、大学教授でもないのに「哲学」を生業にしている文筆家です。
専門用語を使わずに、哲学するとはどういうことかを日常の言葉で語ることに定評があるそうで、『14歳からの哲学』は中学生に正面から哲学を問う本として話題になりました。


副題に「41歳からの哲学」とある通り、本書はオジサンたちの読む雑誌「週間新潮」に成人向けに書いた連載エッセイをまとめた本です。


著者にとって哲学は、何か特殊な学問ではありません。生きているとはどういうことか、自分であるとはどういうことか、誰にも共通の当たり前のことを考えることです。筋道通りに考えてゆけば、人間である限りすべての人に妥当するようなこと、それが「哲学」とのこと。
ただし、当たり前のことを考えるとは、別の言い方をすれば、自分がそうだと思い込んでいることを疑うこと。これが簡単なようで、実はけっこう難しいから、普通の人、俗世間の人はなかなか真理に到達しない、と著者は考えている(らしい)のです。


そんな著者が吐き出す言葉には、「あんたたちに何が分るっていうのさ」というような高みから人を見下すような響きがあります。
そんな高慢な著者の本ならすぐに閉じてしまえばいいように思うのですが、言っていることがいちいちごもっともで、言葉の刃がこちらに降りかかってくるかもしれないのに、ついつい先へ読み進んでしまうのです。


曰く、
   一回きりの人生、思いきり楽しまなくちゃ損だというのは、ある意味
   では正しい。しかし、快楽が目的化すると、人間は馬鹿になるのであ
   る。
かと思えば、また曰く、
   自慢じゃないけれど、働きたくない、何もしたくないという思いの強
   さは、じつは筋金入りなのである。何もしたくない、じいっと考えて
   いたい。したくないことはしないで、したいことだけをして、それが
   叶わなくなれば、どこかで野垂れて死ねばいい。自分の人生なんだか
   ら、自分がそれでいいのなら、それでいいじゃないの。


JR西日本脱線事故についてインタビューを受け、言ったのは、
    いつものことながら、マスコミは大事故が大好きである。(中略)
   こいつを責めている限り、自分たちは正義のような気がしていられる。
   事故の当日ボウリングをしていた、宴会をしていた、黙祷したあとビー
   ルを飲んだ、と見つけ出しては盛り上がっている。
    そうやって、盛り上がって、酒を飲んだのはあんた方も同じでしょ
   うが。
    私は思った。やあ今日は特ダネがとれたと、あんた方も酒を飲んだ
   んでしょうが。
    他人の不幸を酒肴にする、いやそれを生活の糧にしているという点
   では、JRよりもタチが悪い。JRが事故を起こしてくれたから、あ
   んた方の仕事は成立しているんでしょうが。


いやいや、なんと強烈な御仁でしょうか。


著者に反発する人も多い反面、著者に共鳴して手紙を出す人もたくさんいるようです。哲学が分っている人、自分と同じ高みに達した人は、手放しで賛嘆しています。高校生から届いた手紙に「この人がここまで到達したのは、まさか私の力なんかではない。真理の力である。学校では決して教えてくれない、真実の言葉がもつ力である」と、同志を褒め称える言葉も持っている著者でした。


また、今週月曜日の朝日新聞夕刊にも、著者に手紙を出した、ある犯罪者の逸話が載っていました。
彼は東京の風俗店経営者らを刺殺し、強盗殺人の罪で裁判中でした。
著者の著作を読み、「迷いが消えた」「(一審で)死刑でも控訴せず、このまま善く死んでいける」と感謝の気持ちを手紙にしたためたのです。
彼の思索を深めて伝えていくことが哲学と人類のためになる、と考えた著者は、被告人へ返事を書きます。控訴して書き残すように、「生きて、語ってください」と。
著者の説得に応じて被告人は控訴手続きを行い、二人は往復書簡を重ねます。その内容は、『死と生きる』というタイトルで1999年に出版されたそうです。
その後、一審、二審と死刑判決を受けた被告は、10月17日に最高裁から上告棄却の判決を言い渡され、死刑判決が確定しました。
この日の夕刊には、その後もやりとりを続けた池田晶子氏の次のような談話が載っています。
  「死刑という極限状態に置かれて彼の思考は追い込まれ、ついに生死を
   超越した。もう生への執着はなく、死刑確定も平常心で受け止めるだ
   ろう。まだ書きたいことがあるようだがうまく書けなくて、そのこと
   では苦労しているようです」


いやはや、強烈な御仁です。


反発しながらも、ついつい最後まで読んでしまう。本書は、そういう本です。


ところで、私はいつも本を図書館に返す前に、感動した個所、気になる個所をパソコンに書き写すという作業をしています。この本も図書館から借りた本ですから返さなければなりませんが、なんとまあ、あっちこっち自分の貼ったポストイットがびっしりです。
なんだか写経するような感覚で書き写したあと「原稿用紙カウンター」というフリーソフトに数えてもらったところ、総文字数10,778文字、400字詰め原稿用紙にして30枚と12行とのこと。ずいぶんたくさん打ち込んだものです。もちろん私の「読書ノート」生活で最長記録です。


こんなに気になる文章の多い本をどうやってまとめたものか。
苦しみまぎれに書いたのが今日の紹介文です。読者の皆様に、著者の「業」の一端が伝われば幸いです。