過剰な人


2004年11月刊  著者:齋藤 孝  出版社:新潮社  \1,365(税込)  221P

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本書は、著者が大好きなドストエフスキーの著作を題材に、「勢い余った人」「過剰な人」の面白さを楽しむ方法を追及した本です。


ドストエフスキーといえば、とてつもなくながーい作品が多く、やたら長いセリフを話す登場人物がたくさん登場します。著者は、その主な登場人物がどのように過剰な性癖があるのかを示し、どんなに面白いかをこれでもか、これでもかと執拗に説明を加えます。


たとえば『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが過剰に「不意」な言動を繰り返す様を引用し、彼の魂を救うことになるソーニャは過剰に「同情的」な人物であること、誰に対しても自分を犠牲にして尽くしてしまう記述を紹介します。また、『白痴』からは過剰に「男をゆさぶる女」ナターシャ、過剰に「素朴なモテ男」ムイシュキン公爵を、『カラマーゾフの兄弟』からは過剰に「好色な」フョードルの魅力を述べ立てます。
私は『白痴』を読んだことがありませんので、ムイシュキン公爵が「過剰に」「素朴な」と言われても何がなんだかわかりませんが、きっとすごいモテ男なんでしょう。
最後に登場するのは、ドストエフスキーその人。過剰に「情熱の燃え上がるごった煮男」と著者は評価していますが、政治運動でシベリアに送られたり、賭博に熱狂したり、愛人に狂ったり。本書を読んで、ドストエフスキー自身が彼の小説の登場人物たちと同じ激情の中を生きてきたことが分りました。


そして、「ドストエフスキーの本をいつか出したい」と温めていた齋藤センセ自身が、やはり“過剰な人”です。
齋藤センセは、20代の頃まさにラスコーリニコフ的な生活を送っていたそうです。仕事がなく、考え事を仕事にしているという状態でプライドだけ高い。世間に対する敵意も生まれてきたそうで、一つ間違えばラスコーリニコフのように犯罪者になっていたかもしれません。
そんな著者が“過剰な人”という切り口で紹介した登場人物の数々。最高のドストエフスキー入門書かもしれません。


テレビコマーシャルで肩甲骨をグルグル回している元気な著者は、本書の冒頭で「(今の日本人は)全身からみなぎるエネルギーが年々減ってきている」と指摘しています。といって、けっして「もっと人生を過剰に行動しよう」と本書で言っているわけでなく、「過剰な人はおもしろい!」と言っているだけです。
狩猟民族と農耕民族の違いだからかでしょうか。やはり、日本人に“過剰な人”は少ないように思います。
日本人と西欧人のエネルギーの違い、ということで次のような逸話を思い出しました。


ある音楽評論家がオーストリアシューベルトの最後の交響曲(グレイト)を聞き終わったとき、隣の貴婦人が「もっともっと聞きたかった」という表情をしているのを見て、「やっぱり喰ってる物がちがうんだなぁ」と感じたそうです。
この交響曲の第4楽章には、同じ主題が何回も何回も繰り返されますので、日本人の彼は永遠に続くかと思うくらい食傷気味だったのに、現地の人はまだ物足りなく感じているようなのです。
日本人全体に一般化するのは強引な気もしますが、ちょっと納得。齋藤センセが本書の冒頭で日本人のエネルギーの衰退を嘆いていることと符号しています。


本書を読んで、学生時代に「長いなぁ」と嘆息しながらドストエフスキーの作品を読んだことを思い出しました。私は齋藤センセと違って過剰なエネルギーを持ち合わせていないようです。もう一度ドストエフスキーを手にすることがあるんでしょうかねぇ。