風車小屋だより


1958年1月刊  著者:アルフォンス・ドーデー 桜田佐【訳】
出版社:岩波文庫   \588(税込)  226P

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ブログ・メルマガを始めてから私の読書量は週5冊くらいのペースに増えましたが、ふと、「こんなにたくさん読んで、何になるんだろう」と疑問に思うことがあります。
ショウペンハウエルの「読書について」という小冊子に、次のような耳の痛いことが書いてあります。
  「多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く」
  「悪書は、読者の金と時間と注意力を奪い取るのである」
  「反復は研究の母なり。重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべき」
続けて二度読もうと思う本が重要な本だとしたら、「いつかもう一度読もう」と本棚の奥で眠っている本も重要な本なのでしょう。 ついつい新しい本ばかりを手に取ることが多いのですが、今回は、懐かしい本を再読してみました。


19世紀半ばのフランスの作家ドーデーは、パリを離れてフランス東南部のプロヴァンス州の片田舎に居を移しました。さびれた風車小屋を買い取り、明るい日差しを浴びながら、田舎暮らしで出会ったり聞いた小話(コント)を友人に書き送る、という満ち足りた生活の中から生まれたのが本書です。


蒸気機関が発明される前は、この風の強い丘の上にたくさんの風車が林立していましたが、今は風車小屋に粉挽きを依頼する人はほとんど居なくなりました。そんな中、風車小屋の主人だったコルニーユ親方は、少しずつ落魄していきます。かつてはその地方の名士として教会の評議員にもなっていたのですが、今は穴あき帽子にぼろぼろの胴着を着て、ミサに来ても、教会の片隅に座るようになりました。
それでも、どこから調達してくるのか、ロバの背に粉袋を積んで歩いている親方に出会うこともありました。誰も小屋に入れてくれませんでしたが、ある日、親方の留守中に娘と婚約者が中に入ります。そこで2人が見たのは、粉袋に入った壁土でした。親方は、毎日この壁土を運んでは、風車の顔を立てるために、そこで粉を挽いていると思わていたのです。
秘密を知られたからには、もう生きては行けない、と嘆く親方の前に、本物の麦を入れた袋を背に乗せたロバが到着しました。
「おーい頼むよ! 親方!」
この話を聞かせてくれた笛吹きのじいさんは、この話をこう結びました。
「私どもはいいことをしました。というのは、その日から私どもはこの粉ひきじいさんに決して仕事を欠かさせませんでした。その後、ある朝コルニーユ親方は死にました。そうして村の最後の翼はこんどこそ永久にまわらなくなりました」


「南フランス」「プロヴァンス州」というとあまり縁がなさそうに感じますが、ビゼーの作曲した「アルルの女」の「アルル」というのは、この地方の古都ですので、クラシックファンにはお馴染かもしれません。
組曲アルルの女」に収められている「ファランドール」は、プロヴァンス地方特有の踊りで、手をつないで円陣を作り、笛、太鼓に合わせて踊るのだそうです。


この地方特有の猛烈な北風を「ミストラル」といい、同じ「ミストラル」を名乗る田舎詩人を筆者が訪れる話もあります。この詩人は、プロヴァンス語という四分の三もラテン語そのままの方言で詩を作ります。瀕死の状態にあった祖国の言葉をよみがえらせた詩人を筆者は尊敬し、称えます。
ドーデーといえば、ドイツとの戦争にやぶれてフランス語が使えなくなる悲劇を描いた「最後の授業」(月曜物語に所収)で知られていますが、ひときわ「言葉」には敏感だったのでしょうか。


この他、全部で30近い小品が収められています。中には「スガンさんのやぎ」「アルルの女」など、後に独立した物語に発展させた小品もあります。


本書(日本語訳)は1932年初版、1958年に新かなづかい版に改訳したものですので、少し表現が古い印象も受けます。
私自身は、中学生の頃に一度読み、社会人になった1982年に再読しました。本書を読むのは、これで三度目。「読んでよかった」という印象は覚えていましたが、20年以上も間が空いているので、具体的内容をほとんど覚えていませんでした。忘れてしまうことも、大切ですね。
きっと、また20年後に読んでも、新鮮な感動があると思います。
たまには、古典もいかがでしょうか。