2004年12月刊 著者:村上 陽一郎 出版社:NTT出版 \1,680(税込) 283P
本書は、40年の長きにわたって東大教養学部で学生を教えてきた著者が、「教養」とは何か、教養が目指すべきものは何か、について著者の信条を述べた一種の遺言です。
著者が「教養」にかける次のような思いが帯に書かれています。
自分の規矩は決して崩さず、しかしそれで他人をあげつらうことも、裁
くこともなく、声高な主張から一切離れ、(中略)ただ静かに穏やかに
自分を生きること、世間を蔑んで孤高を誇るのではなく、世間に埋もれ
ながら自分を高くすること、それを可能にしてくれるのが「教養」では
ないか、と私は考えているのです。
著者は「教養教育」の原点を12世紀ヨーロッパまでさかのぼります。12世紀ヨーロッパに大学が生まれたとき、教養科目は文法・論理・修辞学の三科と、天文学・算術・幾何学・音楽の四科で構成されていたことから、リベラル・アーツは「自由七科」と翻訳されることもあるそうです。大学という知識の殿堂に入る人間は、全員がまずこの七つの技を身につけることが要求されました。
その後、日本の明治教育の中の「教養」の位置付け、大正教養人の時代、戦後民主主義の時代を概観した後、「教養の原点はモラルにあり」との自らの信念を吐露しています。
硬い話ばかりではなく、途中で話が脱線したりもしますので、けっこう楽しみながら読めます。たとえば、リベラル・アーツの三科を述べる箇所では、次のように言っています。
「三者」を文字通り「トリヴィウム」
英語の
ィアル」という言葉の意味は、「何か特別に言い立てる必要がないほど
当然、当たり前の」というものです。
ん? トリビア? タモリが「何一つ実生活で役立たないムダ知識」って言っているのと同じこと?
また、
専門家になる前に「広い知識」を身につけることを目的とした「教養」
という考え方の伝統をしっかり残しているのは、ヨーロッパよりもアメ
リカの「アイヴィ・リーグ」である。
と指摘したあと、
「アイヴィ」というのは学園ファッションと理解している人もいるが
もともとは蔦の一種で「由緒ある校舎」を示している。
と脱線しているのは、まさに「へーへー」ものです。
最終章では自分が感銘した書物を挙げ、自分の信条を「教養のためにしてはならない百箇条」と題して次のように紹介しています。
・「美味しいもの」とそうでないものとをはっきり区別はするが、食物
についてとやかく言わない、書かない。
・流行語を使わない。
・略語、たとえば「冬のソナタ」を「冬ソナ」というが如き、を使わない。
・外国語も略さない。(中略)
間違っても「ハリー・ポッター」を「ハリポタ」などとは言わない。
・「イエズス会士」を「ジェスイット教徒」などと書かない。
・フォークの背に御飯を乗せない。
・ベスト・セラーは読まない、買わない。
・人生訓など読まない、頼らない。
うーん、やっぱり偏屈そうなおじさんですね。
でも、そう言いながらテレビのことを「テレヴィジョン」、アイビーを「アイヴィ」なんて書いてますから、著者も「教養無き業(わざ)」をやっていることになります。
突っ込みを入れながら読むと、そんなに恐い本ではありません。お気軽にどうぞ。